2012年3月8日木曜日

コンチネンタル航空 - Wikipedia

コンチネンタル航空 - Wikipedia

コンチネンタル航空 (コンチネンタルこうくう・Continental Airlines)はアメリカの航空会社。2010年10月、ユナイテッド航空と経営統合した[1]

2007年現在、有償旅客マイルにおいて世界で4位の規模を誇る[3]。現在のキャッチコピーは"Work Hard, Fly Right."。 本部はアメリカ合衆国テキサス州ヒューストン市。国際線は、カナダ、中南米、欧州、日本、中華人民共和国、香港、インドへ就航している。 ヒューストン・ニューアーク(ニューヨーク)を拠点とした中米・カリブ海方面の路線に非常に強く、全米でも最大級の本数を運航する。

本社・ハブ空港はヒューストンだが、ニューアーク国際空港もそれに次ぐ規模を持つ大型ハブ空港である。これは、1987年にニューアークをハブとして東海岸路線に就航していたピープル・エキスプレスを買収した際に得た権利がそのまま引き継がれているものである。

グアムをベースにハワイ、ポリネシア、ミクロネシア、オーストラリア、東南アジアを結んでいたミクロネシア航空と統合した、コンチネンタル・ミクロネシアが運航していた。

なお、ノースウエスト航空が出資していた関係もあり、スカイチームの前身のひとつであるKLM-ノースウエスト連合に参加していたことや、コードシェア便を運航するなど、同社との関係は特に深かった(ノースウエスト航空はコンチネンタル航空の議決権を左右する株式、通称・ゴールデンシェアを保有していたが2008年4月に同社はデルタ航空との合弁を発表し100ドルでその権利をコンチネンタル航空に売却した)。

[編集] 社風

同社の特徴として、社内情報の徹底的な公開を行なっているという点が挙げられる[4]。本社・支社および空港の同社事務所には、アメリカ国外も含めた全ての部署に「Go Forward Plan Board」と称される掲示板が設置されており、前日の定時到着率、搭乗率、手荷物の紛失件数、さらには社内の大きな出来事[5]などが掲示されている。またエレベーターホールなどのように、待ち時間が生じるような箇所では、電光掲示板や液晶ディスプレイなどが設置されており、定時到着率・搭乗率・株価情報などが流されており、1分程度で同様の情報が得られるようになっている[6]。これらの情報公開により、どの社員でも会社が現在どのような状況になっているかが分かるようになっている。また、社内伝達事項は毎日メールで送信されるほか、毎週金曜日には各社員の電話に会社についての情報をCEO自らメッセージを録音する「ボイスメール」というシステムも採用されている[7]。これらのことから、アメリカ同時多発テロ事件後のレイオフ(一時帰休)や賃金一部カットの際には、経営陣が考えていたよりも労働組合との交渉は順調だったという[7]

同社では部長職以上には個室が与えられるが、個室のドアは在席中は開けたままにしておくことになっている[8]。これは1994年に同社社長に就任したゴードン・ベスーンが考えたことで、経営陣と社員のコミュニケーションを容易に図ることが出来るようにするためという。

特徴的な社内制度としては、後述する定時到着ボーナスのほか、無遅刻無欠勤の社員に対しては半年に一度、抽選でフォード・エクスプローラーの特別仕様車が贈られるというものがある[7]

[編集] 創業期

ウォルター・T・ヴァーニーとルイス・ミューラーによって、「Varney Speed Lines」として1934年に設立されたのが始まりである。1934年7月15日運航開始された時点では、コロラド州プエブロとエルパソ、テキサス州サンタフェ、ニューメキシコ州アルバカーキとラスベガスを結ぶ路線であった。1937年7月1日に社名を「コンチネンタル航空」に変更し、同年10月には本社をエルパソからデンバーに移転した。

1953年12月10日にはパイオニア航空と合併、テキサス州とニューメキシコ州の16都市に新たに乗り入れた。1957年にはシカゴとロサンゼルスを結ぶ路線で「Gold Carpet Service」を開始した。1959年6月8日には、コンチネンタル航空初のジェット旅客機としてボーイング707-120の運航を開始。ボーイング707を週7日、1日16時間運航に充当するべく、当時としては革新的かつ進歩的なメンテナンスプログラムを導入している。


ボストン空港からマンチェスター空港に取得する方法

[編集] 成長期

1963年7月、本社をロサンゼルスに移転した。この時期、ベトナム戦争に赴く米軍の輸送にも関わっている。この時の太平洋の輸送経験を基にして、1968年にはミクロネシア航空としてミクロネシアの輸送に進出することになった。サイパンからホノルルまで、7つの島を経由しながら4000マイル以上の距離を結ぶ路線は、「Ju Ju」という愛称が付与されたボーイング727-100により運航された。同年には、金・赤・オレンジ色の3色となった新しいコーポレートアイデンティティを導入した。

1969年9月9日からは、アメリカ本土とホノルルを結ぶ路線の運航を開始した。大型機材の導入も進められ、1970年6月26日にはボーイング747、1972年6月1日からはダグラスDC-10の運航を開始している。1976年8月には、ミクロネシア航空が日本とサイパンを結ぶ路線の運航を開始。翌年にはニュージーランドとオーストラリアへの路線を開設している。

[編集] 規制緩和の荒波に

しかし、ジミー・カーター政権が1978年に航空自由化政策(ディレギュレーション)の導入を行なってから、コンチネンタル航空は迷走の時期に入る。

1981年には単年度で1億ドルもの赤字を計上するなど、業績の悪化していたコンチネンタル航空は、フランク・ロレンツォに買収されることになった。当初、コンチネンタル航空側は買収を警戒しており、労働組合は従業員持ち株制度(ESOP)の制定を会社側に要求していた。また、社長のアルビン・フェルドマンは、アメリカ民間航空局に対してロレンツォの買収差し止めを訴えていた。しかし、労働組合からのESOPを承認した翌日の1981年8月9日に、フェルドマンはロサンゼルス国際空港のコンチネンタル航空事務所で自殺をしてしまった。さらに追い討ちをかけるように、同年10月13日には、ロナルド・レーガン大統領が「今後アメリカ民間航空局は、航空会社の事業には一切口出しをしない」と表明した。これにより、コンチネンタル航空の 抵抗は内外から崩れ、同年11月にロレンツォに買収された。

1982年10月31日にはロレンツォの保有していた航空会社であるテキサス・インターナショナル航空と合併し、本社もヒューストンに移転した。この後にロレンツォは強引な手法を採った。1983年9月23日に連邦倒産法第11章(チャプター11)の適用を申請、コンチネンタル航空を破産させてしまったのである。全ての便の運航は停止され、12000人の従業員は全員解雇された。そして、ロレンツォは新たに4200人の再雇用を提案したが、給与水準は破産前の半分以下となり、これを了承した従業員だけを再雇用した。運航規模も76都市から25都市に削減された新生コンチネンタル航空が運航を再開したのは、破産からわずか3日後の9月27日からであった。

1986年にはチャプター11の手続きを終了、1987年2月1日にはピープル・エキスプレス、フロンティア航空、ニューヨーク・エアを合併し、アメリカで3番目に大きい規模の航空会社となったが、経営状態はなかなか好転しなかった。1990年にロレンツォはコンチネンタル航空の運営から手を引いたものの、同年12月に発生した湾岸戦争による燃料費の高騰はコンチネンタル航空の財政事情を直撃し、2度目のチャプター11適用申請となった。1991年2月12日には紺青色とグレーの新しいアイデンティティを制定、1992年10月には上級クラス「ビジネスファースト」の運用を開始するなど、再建への模索が続いたが、1994年までに経営陣が8回も交代したにもかかわらず経営状態は改善せず、1992年11月にはエア・カナダから4億5000万ドルの出資を受けることに� ��った。

1993年4月には2度目のチャプター11の手続きを終了したものの、創業60周年を迎えた1994年時点で、コンチネンタル航空は2億400万ドルの赤字を計上しており、1985年から10年間、一度も利益を計上できなかった。従業員の給与水準も業界平均から30%低い状態で、従業員の士気も低下する一方で、社員は仕事が終わると会社のバッジなどをすぐに外していたという[9][10][7]。経営陣が変わるたびに経営方針も変化し、従業員の会社に対する不信感は大きいものであった。それは日常の運航状況にも反映されており、定時到着率はアメリカ大手航空会社10社中最下位、手荷物の紛失件数やアメリカ運輸省への苦情の多さは10社中トップであり、「目的地に時間通りに到着したいと思ったら、コンチネンタル航空だけは避けたほうがいい」とさえ言われていた[11]


株価は3ドル25セントまで下がっており、もはや3度目の倒産は時間の問題とさえ思われていたのである。

[編集] 奇跡的な業績回復

このような状況の中、コンチネンタル航空の再建のために招聘されたのが、かつてピードモント航空にいたゴードン・ベスーンである。

1994年2月にベスーンが社長兼COO(最高執行責任者)に着任してから数ヶ月は、それまでの経営陣の支援を得られず、なかなか改革は進まなかったというが、同年12月に社長兼CEO(最高経営責任者)に着任すると、次々と改革を断行していった。

ベスーンが策定した再建計画は「Go-Forward plan」と称し、以下のような4つの方針を決めていた。

  • Fly To Win…市場の要求に応えた商品を作る
  • Fund The Future…コストをコントロールすることで利益を計上する
  • Make Reliability a Reality…商品の信頼性を高める
  • Working Together…従業員を大切に扱い、安心して仕事が出来る環境を作る

ベスーンや、再建に関わった鶴田国昭は、これは「経営再建の秘策」などというものではなく、誰もが当然のことと考えることを実行しただけであると述べている。

財務システムの改善
1994年の投資額は4億ドルほどあったにもかかわらず、財務システムが杜撰だったため、投資額の行方がわからなくなっていたという[12]。財務担当のグレッグ・ブレヌマンは「何かが変わらない限り、1995年1月に資金が枯渇する」とベスーンに伝えたという[13]。このため、財務システムの改善を行なうとともに、大口債権者には返済計画の見直しなどを求めた他、リース費用の大きいエアバスA300の契約打ち切りなどを行なった。
これらの改善策により、当初は撤退を考えていた路線の収益性が極めて高いことが判明するなど、経営方針の策定に貢献することとなった。
定時到着ボーナス
1995年1月に定時到着ボーナス制度の導入を発表した。これは、アメリカ運輸省が公表する定時到着率において、5位以内に入った場合は、全社員に65ドルのボーナスを支給するというものであった。65ドルという金額の根拠は、定時に到着できなかった場合の追加出費が500万ドルに達しており、その半分の250万ドルを社員数で割った場合の金額が、1人当たり65ドルであったからという。これによって、定時到着率の向上により追加出費が減少すれば、その分だけコストを抑えられると判断したものである。
制度導入後、1994年1月に61%だった定時到着率は、1995年1月には71%、順位にして7位に向上し、1995年2月には4位となった。その後、1996年からは、3位以内に入った場合に変更すると同時に、1位になった場合は100ドルのボーナスを支給する内容に改めた。さらに、1997年からは、定時到着率が80%以上となった場合は、順位に関係なく65ドルのボーナスが支給されることになった。
これにより、商品の信頼性を高めるだけでなく、経営陣に対する従業員の信頼も向上することになった。
なお、1995年7月には従業員の給与水準も元の水準に戻されている。

これらの施策により、コンチネンタル航空の業績は次第に回復してゆくことになった。1995年12月には、10年ぶりに2億2400万ドルの利益を計上したが、これは会社創立以来最高額の利益であったという。株価も1995年1月時点では6ドル50セントであったものが、同年12月には47ドル50セントとなった。1996年にはアメリカの航空雑誌「Air Transport World」が主催する賞である「Airline of the Year」を受賞。1997年には6億4千万ドルの利益を計上した。

再建が軌道に乗った1996年には、騒音規制に対応する方策として、3年間で保有機材の6割を新機材に置き換え、1999年には同社の航空機の平均使用年数は7.4年となった[14]。この結果、アメリカ同時多発テロ事件の発生後の燃料費高騰にも、損失を少なく抑えることができたという[15]

[編集] 他社との提携

[編集] ノースウエスト航空との提携

ノースウエスト航空が出資していた関係もあり、スカイチームの前身のひとつであるKLM-ノースウエスト連合に参加していたことや、コードシェア便を運航するなど、同社との関係は特に深かった。


1998年1月、デルタ航空とノースウエスト航空から買収提案を受けた。デルタ航空の提案が合併であったのに対し、ノースウエスト航空の提案は資本・業務提携であったことから、ノースウエスト航空の資本を受け入れることで合意となった[16]

ノースウエスト航空はコンチネンタル航空の議決権を左右する株式、通称・ゴールデンシェアを保有していたが、2008年4月に同社はデルタ航空との合弁を発表し、100ドルでその権利をコンチネンタル航空に売却した。

[編集] ユナイテッド航空との提携、合併

ノースウエスト航空がデルタ航空に吸収合併されることが決定したことを受け、2008年6月19日、ユナイテッド航空とアメリカ国内での共同運航をはじめ広範な業務提携を結ぶことで合意したと発表した。これによりスカイチームから離脱し、スターアライアンスへ加盟することを目指す計画であることも併せて発表された[17][18]。 2009年10月24日の最終フライトを以てスカイチームから脱退、2009年10月27日にスターアライアンスに加入した。 2009年11月1日に成田国際空港のターミナルもスカイチーム加盟航空会社が集結する第1ターミナル北ウィングからスターアライアンス加盟航空会社が集結する第1ターミナル南ウィングに移転。 2010年5月2日、提携していたユナイテッド航空と合併することを取締役会で決定した。2010年8月27日、アメリカ合衆国司法省より承認され[19]、2010年10月1日にコンチネンタル航空は持株会社United Continental Holdings Inc.の傘下に入り、ユナイテッド航空と経営統合された。[20]。当面、運航は別々に行われるが、将来的には新会社名はユナイテッド航空となり、コンチネンタル航空の名称は消滅する(ただし、合併の特設サイト[1]によれば、あくまでも対等合併(merger of equals)であり、合併後は現在のコンチネンタル航空のロゴマーク・機体デザインで名前を「ユナイテッド航空」にする予定であり、統合会社のCEOもコンチネンタル航空出身のジェフ・スマイゼックが就任している。[1][21]

2010年12月22日、グアムを拠点としていたコンチネンタル・ミクロネシアを統合した。

[編集] 日本就航路線

[編集] 日本線への運航機材

成田発のコンチネンタル航空の運航機材は成田-ヒューストン、ニューアークへはB777-200ERで運航。グアム方面のミクロネシア線の成田発着はB767-400ERおよびB737-800で運航。成田-香港線と関西、中部、新千歳、仙台、新潟、岡山、広島、福岡、那覇の路線はB737-800で運航。

[編集] 就航都市(グループ会社含む)

[編集] 関連会社

[編集] サービス

[編集] ワンパス(OnePass)

コンチネンタル航空のマイレージサービスである。加算マイルの有効期限はない。かつては米系航空会社で唯一、加算マイルの有効期限が無いプログラムであった[22]。規約上、「18ヶ月間内に一度もマイレージの加算がない口座に関してはキャンセル(会員資格剥奪)、またマイレージ残高が無効とさせることがある」と明記されている[23]が、実際にキャンセル、マイレージ残高が無効化されたことはない。初回搭乗ボーナスとして5,000マイルが加算されている[24]

コンチネンタル航空を利用したパッケージツアーブランド「コンチネンタルホリディ」では通常飛行マイルに加え、ボーナスマイル付のツアーがある。

スターアライアンス加盟各社のほか、下記の航空会社と提携している。(2011年5月現在)


ユナイテッド航空との統合作業の一環としてワンパスは2011年12月31日を以て終了し、ワンパス会員は自動的にユナイテッド航空のマイレージ・プラスに移行する予定である[25]

[編集] ビジネスファースト

コンチネンタル航空の座席は、国内線、国際線とも2クラス制である。国際線のボーイング777、767型機のビジネスクラスは、「ビジネスクラスの料金でファーストクラス並みのサービスを」という趣旨で、「ビジネスファースト」と呼ばれている。ボーイング777型機では2-2-2配列、ボーイング767型機では2-1-2配列であり、他社の平均的な配列よりも横1席少なく、座席幅に余裕を持たせている。特にボーイング777型機では他社に先駆けて、ライフラット形のシートを取り入れた。2009年秋から、フルフラットになる新シートを導入予定[26]

なお、地方発着のミクロネシア線で使用される機材(主にボーイング737-800型機)で提供されるサービスは単に「ビジネスクラス」と呼ばれ、上記のビジネスファーストとは内容が異なる。ビジネスクラス専門のチケット業者によってはわざわざそのことに関して注意喚起するものまである。ボーイング737-800型機のビジネスクラスは、米国内線ファーストクラスと同じ仕様のためシートピッチがかなり狭く(キャビン前方に2-2配列だが、通路を挟んで右側に4列、左側に3列の計14席という高密度設定)、リクライニング角度も必然的にエコノミークラスのそれと大差ない。他社の一般的な近距離国際線ビジネスクラスと比較しても、座席周りのゆとりに乏しいため、同機材使用便のビジネスクラス利用者は予め事情を承知しておく必要があ� ��。

[編集] 機内サービス

  • ボーイング777、767の全ての座席にパーソナルTVが取り付けられている。順次、オンデマンド方式に改修されている。
  • エコノミークラスではアルコールが有料で販売されている。500円、または5ドル。
  • エコノミークラスの国内線、一部の国際線ではヘッドホンが1ドルで販売されている。日本路線では無料で持ち帰り可能。
  • 2001年9月の同時多発テロ以降、アメリカの航空会社は軒並み経営が悪化し、サービスの簡素化、有料化を余儀なくされた。コンチネンタル航空だけは最後までアメリカ国内線の一部で無料の機内食を提供していたが、現在は他社に合わせて機内食は有料となった。

[編集] 保有機材

すべてボーイング社の機材で統一し、コスト削減を図っている。

なお、コンチネンタル航空が発注したボーイング社製航空機の顧客番号(カスタマーコード)は24で、航空機の形式名は737-824, 767-324ER, 767-424ER, 777-224ERなどとなる。

(2010年3月現在) ボーイング787-8およびボーイング787-9を25機発注し、2010年以降に納入される予定である。

日本では日テレ (NTV)で放送されていた「アメリカ横断ウルトラクイズ」では成田→グアム・サイパン間を長年同社機を使用していた(第2回-第10回・今世紀最後)。木曜スペシャルの番組スポンサーである全日本空輸(ANA)が国際線を運航してからはANAを使用していた。

2010年コンチネンタル航空は新規羽田発着枠のニューアークとグアム航路の開設を申請した。しかし、2010年5月却下された[1](合併先のユナイテッド航空も2010年新規羽田発着枠のサンフランシスコ線の開設を申請したが、2010年5月却下されている)。


[編集] 参考文献

[編集] 関連項目

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